キラキラネームが世間を占めたなら、それはもうキラキラではないのではないか | 文藝PIERROT

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サブカルに光あれ

キラキラネームと、呼ばれる名付けの風潮がある。これは、かつては誘拐された被害者だったかで有名になった騎士とかいて、ないとと読ませる子飼いたが。あのような、新世代的名づけセンスの総称だ。キラキラネームであれば、その子は就活で不利になるという噂すらある。ある意味、社会現象の一種である。

だが、ひとつ気になることがある。そうしたキラキラネームが年々増量しているのではないか、ということである。少数派であれば、いじめのきっかけにもなろう。だが多数がキラキラしていたのなら、逆に今でいうマトモな名前がいじめのきっかけとなるのではなかろうか。

華紗鈴(きゃしゃりん)と乳製(よーぐると)に亮太が混じっていたら、これはもう圧倒的に不利である。危険な状態だと言わざるを得ない。だがよくよく考えて見てほしい。織豊時代は信玄や謙信がまっとうな名前とされていた。今現れたら、時代錯誤な名前はキラキラネームのように感じられることだろう。だが、いじめられるということはないはずだ。

ぼくの高校時代の友人に孔明という男がいた。ひろあきではない、こうめいだ。彼の父は三国志が好きだった。なので、諸葛孔明から名を取ったのだという。孔明自身も三国志が好きで、ちょうどぼくが高校の時分には三國無双が発売されたところだったので、その話ばかりしていた記憶がある。

名前は浮いていたが、彼がそれがもとでいじめられたということはない。それは孔明が笑いに精通した人物だったことも大きかったのだろう。名前のインパクトより、彼自身のキャラクターが強烈で名前など気にもならなかったのが実際のところだ。

いじめというのは、小学校時代いじめられ続けたぼくが思うに、「仲間づくりが苦手」であるか、「他人に気を使いすぎる」などの、よわいものいじめがしたい人間に「’標的」と認識されてしまうことで発生する。大学になれば、陰湿ないじめがなくなるのは、「標的」とされても逃げきれる場があるからだが、小中高はどうしても閉鎖的で、そのような逃げ場は存在しない。そうした状況的要因が大きいのだろうと感じる。

例え、キラキラネームがつけられた子がいても、たかがそれだけのことでいじめられてしまうのは、学校のシステムが破綻している事実があるからだろう。正常な仕組みによって運営されていれば、いじめは発生し得ない。ただし、そのためには、現在ある学校のシステムを根幹から破壊する必要があるように感じる。

キラキラネームの子どもたちが世に出たとき、小中高は大いなる判断を求められることになるかもしれない。試金石として現れるいじめられやすい要因をもったこどもたちが内在したとしても、いじめの起こらない学校運営ができるか否か。対応できなければ、キラキラネームをつける親たちは間違いなくクレーマー体質だ。大きな社会問題が引き起こされる可能性が高い。

そのような最悪の事態が引き起こされないことを祈るばかりだが、おそらく何もすることもできないほどのがんじがらめなのだから、わかっていても神に祈ることしかできないのだろう。少なくとも、公立の教育機関に携わる人々には、であるが。

友人の公立の教育機関で教師を務めていた人物は、現在の教育システムに絶望していた。一方、私立の教育機関で教師を務めている人物は、子どもたちの教育に対して熱を持ってあたっている。時代遅れの教育システムにとりつかれた公立の教育機関は、どんどん錆びついていくのを感じながら、もがいているのかも知れない。

国がシステムを変えない限り、そのもたつく体制を是正しない限り、日本の教育は私立頼り担っていく運命にある。だがそれは同時に教育に金を注げない家庭の子どもたちは錆びついた教育を受けざるを得ない状況を作る。生まれついて格差が生まれる用になってしまう。

そのための奨学金かもしれないが、今の奨学金がまともに成績を評価して、資金援助をしているようには見えない。なあなあで、とりあえず金を貸して体裁を整えているだけではないのか。奨学金なのだから、その金は投資とすべきである。なぜ、返済義務のある資金とする必要があるのか。審査が適当だからではないのか。本当に必要なひとに、必要な額だけ投資するのであれば、返済義務のある資金をばらまく必要なんてないはずだ。

そのような、堕落しきった国の教育への在り方が見直されない限り、キラキラネームの子どもたちにも、そうでない子どもたちにも、まっとうな教育が施されることはない。早急な改革が求められるように感じる。

文科省はいつまで振り子遊びで子どもたちを壊し続けるのだろうか。100年を見越した緻密で壮大な教育計画の実行を求めたい。ぼくが望むのは、ただそれだけである。


(元弥きと/Twitter)